追悼岡田繁幸総帥(続き)
さて、こうした経緯で2001年に私はラフィアンに入会、一口馬主となりました。
入会後に会報誌の記事で牧場のことを詳しく知るようになり、会員のホームページをいくつか探し当ててクラブの実情や管理馬の情報を徐々に得ていきました。
さらに「マイネル軍団の謎」という本が発売され購読し、BRF、ラフィアン、岡田繁幸氏のことを深く知ることができました。これを読んで凄いクラブに入ったものだと誇らしかったものです。
入会して間もない2004年にはクラブから重賞馬が次々と現れ、3頭が日本ダービーに出走、コスモバルクの出走と合わせてマイネル軍団の活躍と世間の注目を浴びました。
私自身の出資馬のマイネソーサリスも翌2005年に愛知杯を優勝し、今から思うとこの頃が一番楽しい時期でした。
初めて岡田繁幸氏に会ったのは、マイネソーサリスの中山競馬場ターコイズS優勝の口取りの時だったと思います。
私は今ではツアーや単独で何度も北海道まで牧場見学に行っていますが、初めて牧場見学に行ったのは入会後5年たった2006年のこと。
ツアーに初参加したのは2007年でした。この頃にはラフィアンの社長は岡田繁幸氏から長男の紘和氏に交代し、有名だった展示馬の解説も代わっていました。それでも時折解説に割り込み、片鱗をみせてくれ、その人となりを目の当たりにしました。
私が見知っている会員さんの話やSNSからは、牧場見学の際に一会員にも丁寧に接してくれた体験談をよく聞きますが、残念ながら私にはその経験はありません。
やはり、ツアーの際の展示会、パーティー、その他の場所での独演会で楽しませてくれたのが思い出でしょうか。
最後に直接話しをしたのは、2015年のツアーでのパーティ会場で、社台の牧場見学ツアーで見たスタセリタの14(後のソウルスターリング)の話をしていると食いついてきたのをよく覚えています。
岡田繁幸氏の活躍のピークは何といってもコスモバルクの活躍とそのコスモバルクが出走した2004年の日本ダービーだったと思います。
ただ、それ以降はクラブの成績も降下し、正直なところ成績以上に会員として疑問点ばかり目立つようになりました。
亡くなったばかりで多くは書きませんが、競走馬の選馬、育成等々、独自の理論で牧場運営をされましたが、その手法には功罪があると思っています。
少し思い出を書くだけのつもりでしたが、書き始めるとキリがないようです。それだけ私にとってラフィアン=岡田繁幸氏の思い入れも強い証拠だと思います。あらためてご冥福をお祈り申し上げます。
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